ペットとマナーと、主観と客観

ペットとマナーと、主観と客観族として4頭の犬と暮らしてきた。最初の犬は、気の強い柴犬で、散歩のときはしばしばリードを強く引かれた。しかし、他に人がいるとき、車の走る道の端を歩くときは、精一杯リードを短くもって、犬が車に轢かれたりしないように、よもや誰かに危害を加えないように、随分と気を遣っていた。
両親からは、どんなに自分達にとって大事で可愛い家族でも、他人から見れば「犬」であることを忘れてはいけない、と言われていたし、私自身もペット(犬)は家族ではあるけれど、「犬」という自分たちとは異なる生き物なんだと認識していた。
だから、ただ主観的な見かただけではなくて、客観的な見かたができていたように思う。そして、周囲で犬を飼っていた人たちも、犬は「犬」という別の生き物なんだと理解していた人が多かったように思う。
しかし、最近、何だか違和感を感じる飼い主さんをよく見かける。自分にとっての家族は、他人にも家族と認識していてもらえる、と信じて疑わない人たちだ。
他の生き物について、あまりに客観性がないと思える人が増えた気がする。
広い公園で、子どもが遊んでいる。そこへ散歩に来た小型犬連れの飼い主さんは、あまりに自然に犬からリードを放す。犬は好きに走り回る。もちろん子どもの方へも寄っていく。「万が一、犬が子どもを噛んだらどうするんだろう」「もし犬が道路に出ていって轢かれたらどうするんだろう」……見ているこっちの胃が痛んでくる。
欧米では、リードに繋がずに散歩をしたり、公道を歩くのは普通のこととよく聞くが、それはそもそも犬を飼うことに対しての姿勢がベースから異なるから、成り立っている様子で、同じ理論はこの日本ではまだ通用しない。
しかし、何より、私は犬を生き物として人間とは異なる「犬」でると忘れるのは、自分と異なる種の生き物に対する冒涜と思える。
「犬」が嬉々として野原を駆け回る姿や、怒る表情、吠える姿、跳ね回る楽しげな様子を知っていれば、普段、人間と生活する犬がどれだけ本能の部分を抑圧して一緒にいてくれているのかわかるはずなのに…。家族と思って愛することと、犬を「犬」と思わず接することは、何かが違う。もし、万が一普段抑えている本能が爆発して、犬が加害者となっても、被害者となっても、結局本当に辛い思いをするのは、飼い主ではなく、飼い主の行動を信じていた犬そのものだ。
私の家族だから、みんなにとっても可愛いはず、ではなくて、本当の犬としての特性をよく理解して、公私を分けて接することが、ひいては犬に関わる全ての人の幸せに繋がると思う。もちろんそれは、犬自身にとっても。